x昭和五十七年二月十七日 朝の御理解
x 御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
人を傷つけたり殺したり、しかもそれが心で殺したり傷付けたりする、という事は神が見ておる、とこういうふうに言われる。段々信心を手厚うさせて頂けば、まあ人を傷つけたり殺したりする事もないでしょうけれども、自分という者があるゆえに人を傷つけたり殺したりするわけですから人を殺す、という事よりも自らを殺していく。自分自身を殺していく、という私は生き方を本気で身につけていく事だと思う。自分がある。いわゆる我情を殺す、我欲を殺していくという事なんです。
そこには、ね。確かに我身は神徳の中に生かされてある喜び、その実感を味わう事が出来ると思うです。昨日研修が終わりましてからでしたが竹内先生が、親先生珍しいものが出て来た、というて、今お届帳の整理をやってるんですね。もう何十年のをずうっと、おそらくあのう一年一年のお届数を調べとるのでしょう。そして今度きちっと箱に詰めて保管する、という事でしょう。その中の一冊を持って来たんですけれど、一冊の終わりの余白のところに私が、まあその時分の信心の心境でしょう書いておる。(あれはちょっと出されんだろう)
r 七生報教と書いておる。私の四月一日が誕生ですから、この誕生を境に…生まれ変らして下さい、という事が書いてある、ね。まあ生き変わり死に変わりお道の為にお役に立ちたい。その為には自分があっては出来ない。ちょっと読んでみましょう。ここにこんなふうに書いてある。一番最後んところに、もう二十何年前の、(?)これは、(二十一年前の)、二十一年前の、七生報教と書いて、私が四十八才の時でしょうね。七生報教 四十八年の御無礼御粗末御許し御願上げ奉る 四月壱日を堺に生まれ変り生き返らせ給へ 生神金光大神天地金乃神の御悲願達成の為の御用に何卒お使い廻し御願い申し上げ奉る 昭和三十六年四月壱日 大坪総一郎
そういう願いというものをやはり持たなければいけないのじゃないでしょうか。
自分という者を空しうする。自分という者を無くして、自分の我があるから人に言いにっか事も言わなんならん傷つけるような事。場合にはもうぐさっとそれこそ相手を殺すような事さえなってくるのです。自分という者がない。それもそんならば、ね。この道に純然というか、それこそ生き変り死に変りお道の為に、ま、御用にお使い廻しが頂きたい、というような、いうなら遠大な願いというものがあって初めてそこに自分という者を空しうする精進も出けるのじゃないでしょうか、ね。
昨日はまあ御縁といやあ不思議な事じゃな、と言うて取次さして頂いた事でしたけれども、昨日、行橋支部の支部長がお母さんとその、お母さんを三十五年前にお導きをして下さった、という方をお導きして昨日は一緒に参って来ました。しかもそのう、三十五ねん前にお母さんをお導きされた、という方が、この頃ここに名古屋から参って来られるんですよね。御信者さん方が、その、名古屋から参ってくる方がその、お母さんのお導きやったそうです。だから昨日、その、名古屋からその話を聞いてお参りをして見えて、そして行橋の方へ寄られて行橋支部長と一緒にこちらへ、昨日は参拝して見えられたんです。
息子さんが門司におられて今度はレストランを経営されるか何かで、そのお願いもあってその息子さんも同道で参られました。お母さんとその三十五年前にお導きをしたという方と、その息子さんと支部長と四人で参って、まあ縁ちは不思議な事ねえ、ち言うて、三十五年ぶりにまた新たなおかげの頂けれる合楽にこんだ反対にお導きをしておられるという事である。ここにお参りをして来た。その名古屋の御信者さんが合楽の模様を話された。ね。そして九州の方にはこういう方があってこういう事…という話からだったでしょうね。
昨日そうしたお参りをさして頂いてからお届けですけん、今朝方から、ま、不思議なお夢を頂いた、というのです。というのは、z堀内先生自身が火葬場で焼かれておる、というお夢であった。そして私があんまり焼けんから、これはこげな事ではいっちょん焼けんです代、というて言うたら、この、合掌しておる手のここんところに隙がある。ここから風が入るから焼けにくいやけども、まあ今の熱情で行くなら、ま、どうやらこうやら焼けるでしょう、ち誰かが言うておるところをお夢に頂いた、というのですね。
まさしくやっぱあれだけの人が助かるほどしの中心を受け承っております人ですから、やっぱり自分があっては様々な自分自身の上にも、先達てからも申しますように普通人情から言うたらとても耐えられまい、とても辛抱が出けまい、といったような難儀に直面した時なんかも、それはやっぱり二日間位はその事で悩みましたけども、ここにそいわ人間関係でしたが、その相手の人間関係の方の事をお願いをさして頂いたら松、何々、という、松の字のつく相手であった。
だから私それを見た途端に感じた事は本当にこれだけでもいい分かるなあ、神様の御演出という事が分かるなあ、と。それこそ申しましたら、憑いたものが落ちたように、はあ先生そうでした、と言うて助かったんですよね。成程それはもう人間的に言うたらこらえられない、辛抱される事は出来ないような問題に直面しておる時でもその相手が、いうなら松の字がついておった。これは神様の御演出と間違いない事が改めてはっきりわかった。わかっちゃおるけども改めてわかった。
わかった途端に自分の心の中に今迄色々苦しかったその問題が一遍にこうなくなったとこう言う。そういう時が私は自分という者が空しうなった時、死んだ時だと思うですね。ね。それこそ恨み、辛みとでも、そりゃ当然だ、と思う位な問題でしたが、ね。その、恨みもなからなければ辛みもないようにならせて頂いてそれから数日後、それはそれはまた見事な見事なおかげになりましたんです、その事が。本当に嘘のようなおかげになったんです。ね。そういういうなら稽古をしておる人ですから、結局自分があっては、ね。自分も助からん人も助からん。そういうところに本気で焦点を置いて自分を火葬場で焼いておるお夢であった。
ところがまだまだこう合掌しておる、という事は神様に向かっておる、という事でしょうね。向かうその心の中にまだ隙がある。だから燃えにくい、とこう。それでも、ま、今の熱情で行きゃあ、ま、燃えるとは燃えるじゃろう、とこう誰かが言っておると言う。自分が焼かれておるのを自分で言うて自分で聞いておる、というような不思議なお夢であった、と言うのです。ね。
私は人を殺す、という、ね、傷つける、というがです。これは自分があるから殺すのですから、まずおかげを頂く。自分という者を空しうする稽古。まあそれをお道、教祖様のお言葉を借りると我情を捨てよ我欲を捨てよ、という事になるのじゃないでしょうか。ね。そこに我身は神徳に生かされてあり、神徳の中に生かされてある喜びがある限り、私は、ね。人を傷つけたり殺したりない、また自分自身の上に起きてくるそういう普通では耐えられないような難儀な問題に直面しましてもです。
自分という者をなくするところからです、ね。それを、ま、神様の御演出と見るような心も生まれてきて、ね。普通ではとてもとても苦しい問題が苦しい、という事ではない。しかもそれが次のおかげにつながって行くようなおかげにもなるのです。昨日たまたまね、そういうお届けをさしてもらうと同時に、そう二十数年前に私がここに書いておる「七生報教」という。いよいよ自分という者を、いうならば殺した上にも殺して、ね、お役に立ちたい、という念願がここに伺われます。
皆さんもやっぱりそうです。私は「日に日に生きるが信心なり」、とまあ素晴らしい御理解ですよね。教祖様の、という事は「日に日に死ぬるが信心なり」、とも言えると思うです、ね。翌日はまた新たな自分が生まれておる、というのですから、ね。いうなら、殺す、とか傷つけるとかと言う前に、やはり自分自身を殺す、というか空しうする稽古、ね。そいが本当は信心の、まあ究極のお互い願いでなからなきゃならんと思うですね。どうぞ